達人を前にして剣が抜けない。
やわらかくも独特の空気に支配されている。
バガボンドでもそんなシーンがあった気がする。急須職人、山本広巳さんの前でなかなかカメラを抜けない。
脇に置かれた一眼はあまりに大きく、不恰好だからか。
それとも、借りてきたカメラのように、僕には不自然だからか。
美しい人とモノとの空間に、邪魔のように思える。
あぁ、そうか。僕は一眼を嫌いになりつつある。
のめり込むほど、カメラが写す景色は現実離れしていく。
カメラに非はない。ただ人間がより美しく、演出していってしまう。
写真は美しい。
ただ、撮る者は、現実と演出した理想の差を常に感じている。
現実を切り取っている。違う、これは現実ではない。自分自身の見たい景色を写している。幻想にすぎない。
写真は自身の深層心理を写している。
カメラを買い換えた理由の一つは、広巳さんを撮るためでもあった。
どのような人物かは、業界のもっとも深い人たち、亡くなった偉人たちが知る。
しかし、不思議なことにこの時代に広巳さんの写真一つもでてこない。
だから私はカメラを持ってる。いつか写真に収められる時が来るのか。いまは想像がつかない。
さて、山本広巳のクリエーションの重要なところにふれる。
山本広巳の急須は、例えるなら”究極に真っ直ぐな線”を描いている。
それは形でも、素材にも言える。
グニュグニュと曲がった線は、誰でも簡単に真似することができる。
適当に線をなぞるだけで、雰囲気は似かより、見る者も違いに気づかないでしょう。
でも、究極に真っ直ぐな線は、簡単にはなぞれない。わずかにでもはみ出し、違和感がでる。
山本広巳の急須は、模範しても違和感が残る。ぱっと見似ていても、違和感が隠せない。
その違いが生まれるのが、最高の急須職人である所以。
よくよく誤解されるのですが、私は急須にこだわりがある人ではありません。
仲の良い関係者は知っていますが、ファッションにも興味がなく、着飾ることもありません。
なにものにもとらわれず、無刀。そうありたい。
山本広巳の急須を見て問われます。
「ならば、人生において、究極に真っ直ぐな線はなにか」
物事は突き詰めると共通しています。
つまり、人生において、究極に真っ直ぐな線と呼べるものが存在するということです。
私も死ぬまでに、描いてみたい。
サシェ 上原